数奇な運命がつなぐ「土佐しっくい」の歴史
当社では、今も昔ながらの方法で、土佐塩焼石灰を製造しています。
さて、その始まりは、いつ頃だと思いますか?
今回は、当社の工場もある南国市稲生(いなぶ)地域への、石灰の製造技術の伝来についてのお話です。
時は江戸時代の享保年間(1716-1736)、稲生で採掘できる良質な石灰石を、藩の許可を得た商人が焼き始めました。
そして時を経て江戸時代の文化年間(1804-1818)、阿波の国(現在の徳島県)から四国遍路に出かけた徳右衛門さんという方が、南国市下田(現在の稲生)を訪れたところで病で倒れてしまいました。その時に地元の人たちにお世話になったため、お礼に阿波で行っていた石灰の製造方法を教えました。これが、当社で今も製造している土佐塩焼石灰の始まりです。
その功績を称えて、稲生には徳右衛門さんの石碑があります。石灰に関わる偉人の石碑が三基並んだなかでも、一番大きく目立つ石碑です。
場所はなんと、当社工場のタンクの道を挟んだちょうど南側にあります。
徳右衛門さんと稲生地域のその後
余談ですが、この後阿波に無事帰還した徳右衛門さんでしたが、他国に石灰の製造技術を教えたことが罪に問われたため、失意のうちに再び高知県の室戸市羽根まで逃れてきました。そこでもやはり地元の方にお世話になったので、お礼に石灰の技術を教え、自らも永住したそうです。そのため、羽根八幡宮の境内にも、同じく徳右衛門さんの記念碑があるそうです。
高知県の石灰業の始まりには、こうした徳右衛門さんとのご縁があったのですね。
また、この稲生地域は名前どおり稲作が大変盛んな地域であり、この周辺が高知の二期作の発祥の地と言われています。この大きな理由として、稲生で生産された石灰を肥料用に使用し始めたことがあり、その結果生産高のアップに繋がったと考えられます。
この土佐塩焼石灰については、別の機会にもう少し詳しくご説明しますね。
[執筆:スタッフF]